海が育む南三陸の森を財産として、近郊の森林組合と連携し、復興を牽引したい。

宮城県・南三陸町

南三陸森林組合

海が育む南三陸の森林、森林が育む南三陸の海。

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img0304-2l南三陸町は、南三陸金華山国定公園に指定される、風光明媚な漁村風景が残る郷。

「町は300〜500m級の五山に囲まれ、行政区が分水嶺で区切られている珍しい地形です。山の自然と恵みである八つの河川すべてが志津川湾に注ぎ、森林をきちんと管理しないと結果的に海も駄目になる、という思いが組合員にはあります。」(南三陸森林組合 代表理事組合長 佐藤久一郎さん)

宮城県の唐桑半島では山は海の恋人という思いで漁師が植樹をしているが、この町でも海の人が森を、山の人が海を考えている、そういう土地柄なのである。養殖業が盛んなことからもその意識は高い。

「私たちの山は海のミネラル分の多い潮風でできあがっていると思っているんです。というのも峠を越えた反対側とはスギの性質が明らかに違う。良材を生む背景に海がある、という考え方です。」

森林組合としてまずは山の管理をしっかり行う、ここから出た材をいかに付加価値を高めていくかその仕組み作りを考えていたなかで震災に遭う。津波で家が流されたり、家族が行方不明になった組合職員や林業技術者も多く、震災後は生活の基盤が失われたなかで、捜索などに追われたといいます。

震災を機に、良質の杉を通した新たなつながりも。

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img0304-5「震災によって町は壊滅的な被害を受けましたが、高台にある組合の事務所は無事でしたし、地震による山崩れなどは起きず、幸いにも山は残りました。ただ地域最大の製材施設や町内唯一の乾燥機があった製材所が被災し、木材の出荷ができなかったこと、チェーンソーや刈払い機を流出した人も多く、仕事をしたくてもできない状況が続きました。」

そんな状況下で復興支援も兼ねた森林見学会の打診を受けたのが2011年の6月。以前より『地域の木で家を建てる運動」を一緒に活動してきた仙台の工務店からの話だった。

「この地は、北上山地の南端に位置し、良質の杉の産地として古く知られていますが、南三陸杉の特徴である色みの美しさ、丈夫さ、歴史や森林、林業について詳しく説明しました。森林見学会に参加したのは南三陸杉で家を建てたいという仙台在住の人たちで、震災の現場をみてショックを受けながらも、山が健在だったのを見て安心して帰られました。こちらも地場材を心配してくれる人たちに出会えて元気をもらいました。求めに応じて行ってきた森林見学会ですが、今後も人との繋がりを大事に続けていきたいと思いますね。」

近郊の森林組合と連携し、地域の復興を牽引。

img0304-7「うちの組合の特徴は、津山、登米というそれぞれ近接する森林組合と共販所をもっていることでしょうか。3つの組合はいろいろと連携・協調関係にあります。今回の震災では当組合は被災者でもあったわけですが、地元材を使った仮設住宅を登米の森林組合さんから声を掛けてもらい実現した経緯があります。また、震災直後は被災した町の漁協に、森林組合の会議室を貸したんですが、その縁で漁協の支所を森林組合が建ててくれないかと頼まれた。ここでも登米森林組合の協力があって建てることができましたが、本当に有り難いサポートをしてもらっている。そもそも登米は機械化が早かったし、津山は製材所が多いというようにそれぞれ特徴がある。うちは地元材には自信があるとはいえ規模が小さいので、足りない部分を補ってもらっています。」

仮設住宅も、漁協の支所も、そして民家も、地場の材を活かせる環境があること。森林組合同士が助け合う関係が築かれていること。これも南三陸森林組合が長年取り組んできた、顔の見える施業に対する裏付けであり、努力の賜物だ。

「震災の被害を受けた塩害木を切った後に、広葉樹を植えたいという思いもあります。ここにはタモの木やモチの木といった熱帯の木の群落があるし、その北限の地として国の天然記念物の指定を受けているんです。」

モチの木が自生する島もあるが、今回の震災で潮を被っても常緑で枯れなかったのだとか。

「全国の人たちに、タモの木やモチの木の里親になってもらい、秋にはこの町に植えに来てもらってもいいでしょう。そうなれば交流人口も増えて町の経済だって活性化する。」

海と森が一体となった仕組みのために、森の部分ではまだまだやるべきことがある、これが佐藤組合長の思いです。

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南三陸森林組合

宮城県本吉郡南三陸町志津川字天王山138-3

江戸時代から良材として知られる南三陸杉の育成・循環に取り組む森林組合。山林所有者には漁師も多く、86年から漁協の植樹をサポートするなど海、川、山が連携した施業にあたっている。地元の中学校に対し森林や林業の体験学習を15年間続けるなど教育面での地域との繋がりにも傾注している。