□ 椎野潤ブログ(塩地研究会第48回) 佐伯広域森林組合と歩んだ道(1)
佐伯広域森林組合 柳井康彦
1.製材所へ入社
昭和58年、私は地元佐伯市の製材所へ親父の伝手で就職し半年後には製材台車(製材をする鋸と台車が一体化した機械)のハンドルマンとして働きました。メインは杉材を中心に建築材を販売加工する製材所でした。思い出すのは午後3時には必ず電線ドラムパレット用材の注文が入り、急遽杉材からニュージー松材を製材する工程に変わります。それが終わるまでは終業とはならないのが1日の工程でした。私もはやく帰宅(遊び)したい為に我武者羅にがんばっていた事を思い出します。そのころの佐伯市は住宅ラッシュで製材所も数十軒あり木材団地を形成し活気にあふれていました。当時19歳のハンドルマンですから、木材の事にも興味もなくひたすら言われるがままに丸太を製材しました。製材する丸太は杉、桧、米松、NZ松、アガジス、ラワン、米栂等々多種多様。当時の佐伯港へは外材がかなりあがっていた記憶があります。丸い原木を四角にする作業を3年間続けました。興味もなく使用用途も分からない状況、うるさいしほこりはするしで、いつか辞める事のみ考えていた気がします。それでも3年間もやりますとその木の固さ、匂い、色味、くせなどいつのまにか体で習得したようです。※この経験が後ほどの人生に役立つとは思っていませんでした。
2.森林への入り口
昭和62年、森林組合へ縁があり就職。さらに山の中にはいっていきました。当時の森林組合は5,6人程度の小規模の組織でしたから管理業務とはいえ時には自分で立木を伐倒したり、植林したり、架線作業から重機操作もこのころ習得しました。結構、危険な場面も多々ありましたが、私自身嫌いではなかったようです。そのころの佐伯市の山林は20年生から40年生程度の樹齢の山林が多く、間伐をメインに作業を行っていました。そういった背景の中で森林組合が木材団地に小径木加工場を立ち上げました。
私は山側の担当職員として立木を生産していた時期。ある休日にその森林組合小径木加工場を通りかかった際、一人でもくもくと工場の中で作業をしている姿が見えました。工場内の掃除作業をしている人がいて「今日は休みではないの?」みたいな問いかけをしたと思います。「今日やっとかないと明日からの稼働がうまくいかないんよなあ」と。たぶん自主的にやっている作業でした。この人こそ、今の佐伯広域森林組合の今山専務です。当時20歳くらい。髪の毛ふさふさの頃でした。現場の作業員から専務にまでなられました。このころから志レベルがちがってましたね。一方、私は10年間、森林組合が主に行う事業(伐採、植林、架線、作業道、測量など)を経験、習得した時期でした。
3.プレカット経験
平成11年には森林組合がプレカット事業に着手しました。当時、リーダーシップのある参事が次々と事業をけん引した経緯があります。その中でも森林組合がプレカット事業を行うことは今思いますと画期的なことと思います。その工場への異動(山側から)となりました。おそらくその頃の上司が私の製材所経験なども踏まえこのプレカットへの配属を決めたのではないかと推測します。私は山の方での業務に一通りは自信を持ち自信過剰の頂点で年齢も36歳。バリバリの頃でしたが、この異動は別会社に就職したような日々でした。すべてが1からやり直し感があり屈辱の毎日です。いままでの経験などまったく役にたちません。このころはまだプレカット自体が先駆け的な時期で職人には認知されていない状況でした。大工さんには加工ミスがある度になにかと叱られました。数年後には業務もかなり忙しくなり朝4時から夜おそくまでの業務が続きました。その中でも相変わらず住宅の建屋現場では大工さんとのやりとり荷下ろし的なクレーム、加工的なクレーム。とにかくよく叱られる仕事です。当時、山の担当をしていたころとはまったく違う世界。私の中でもきつい時期だったと思い出します。いまでも忘れられないのが上司のY氏。プレカット業務はクレーム対応必須。とにかくなにを言われようとニコニコ対応。「この人スゲー」と。今までの私の心の小ささをすごく感じた経験でした。
それから1年ほど経ち、当初読めなかった図面も立体的に見られるようになりました。また、この部門でやっと以前の製材所での経験が引き出され、住宅での使用材料が頭の中でフィットしたんです。少し、プレカットの事業に自信がでてきた頃です。
☆まとめ 「塾頭の一言」 本郷浩二
製材→森林組合の造林間伐部門→森林組合のプレカット部門と経歴を積んできた歴史ですね。森林組合は本来、森林所有者の森林経営を支援する役割ですから、所有者自身でできない森林施業を請け負って実行するのが仕事ですが、昭和53年度に予算化された森林総合整備事業によって、森林組合が行う造林、間伐等の施業は、その費用の2/3以上は補助金で賄われる構造になっていました。また、同じ時期にスタートした間伐特別対策の非公共事業として定額の間伐補助金が交付される事業もでき、これらの補助金制度によって、請負代金は少額、うまくやれば森林所有者の負担はゼロの請負もできたようです。森林総合整備事業は森林所有者が自らやってきた作業を森林組合がまとめて実行することとして、森林組合を事業の面から支援する事業として立案された補助事業です。振り返れば、森林組合の補助金依存体質を作った契機となった事業とも言えるでしょう。
一方、もちろん本来的に補助金で利益が出るわけではないので、間伐した木材を利用して収入を得なければ、森林組合の財務事情は良くなりません。それを担った手法が、間伐材を利用した共販所(原木市売)と小径木加工の工場です。
林業構造改善事業によって、市町村が補助のイニシアティブを執る形でこのような小径木加工場の整備が全国で行われました。間伐材も35〜40年になればそれなりの太さになり建築材に使って欲しかったわけですが、輸入木材の品質、供給体制とは天と地との差があって、まだまだ間伐材の市場の評価は低かったのだと思います。その後、間伐材が太くなるにつれて、間伐材を主に挽く森林組合の製材工場の整備がされましたが、その営業成績は総じて非常に厳しい状況で、多くは赤字を市町村の助成で補填するありさまでした。当時、木材産業界からの批判も大きかったような覚えがあります。
そのような状況の25年前に、プレカット事業に進出した森林組合は非常に稀であったと思います。製材工場がきちんと稼働していて、しっかり収益を上げることができていたからでしょう。当時のプレカットは大工の刻みの仕事を機械作業に置き換えようとしたものですから、川上側の森林組合の意識からすれば遥かに遠い川下の仕事です。需要に近いところに製材事業の生き残りの視点を当てた佐伯広域森林組合の先見性にビックリです。