□ 椎野潤ブログ(堀澤研究会第7回) 森林組合の行方―林業サプライチェーンの実現に向けて「森林は誰のもの?」
堀澤正彦
私が所属する森林組合の組合員は広域合併当初の6千人超から約5千人と約20年間で千人以上減少しました。単純に数値を見ると非常に大きな数字ですが、実は組合組織の経営にはさほど大きな影響があるわけではありません。というのは、当地域の森林所有規模は林業統計の平均をはるかに下回る零細所有なこともあり、個人所有者からの出資金額が寡少なため、財務基盤を脅かすような事態に到底陥る心配がないからです。
しかし、これを森林所有に視点を置き換えると由々しき事態だと言えます。組合の脱退理由、届出に書かれる表現は様々ですが、おおよそ要約すると「今後は森林にかかわりたくないから」と読み取れ、土地登記上の山林は要らない、処分したいという方が大半です。そして、輪をかけて問題なのは、かろうじて加入を続けている組合員の意識です。森林組合に加入し続けているからと言って積極的に森林経営、管理をしているわけではありません。こちらも森林所有を負担に感じ、隙あらば山林という土地を手放したいというネガティブ思考であることは明白です。
ここで言うまでもありませんが、山林はかつて日本人の生活にとってなくてはならないものでした。エネルギー(薪炭)、農用資材等々、こぞって使い倒してきたのです。ところが時代の変遷のなかでその必要から外れ、多くは人工造林という結果として回収のあてが見えない資本投下の対象となってしまいました。無理やりに例えると、入れ込んだものの一向に業績の上がらない会社の株式証券みたいなもので、しかも、それは自身の意思ではなく、爺ちゃん、曽爺ちゃんの仕業を相続という成り行きで受け継いでしまった。となれば、底値でも必要とする人に売却すればよいのですが、現状の森林の多くでは簡単ではありません。そもそも企業価値にあたるデータが曖昧模糊、量も質もわからないどころか所有境界(それが誰ものなのか)もわからない。実態のない(わけではないのですが・・・)ものに触手を伸ばそうなんで誰も思うわけありません。ただ、山林を土地ごと売るなんて、投資(造林)に勤しんだ世代には想像だにしない状況であり、隠すことが価値を上げるという風潮が支配していたので因果応報なのかもしれません。
さて、今回は森林組合の現状から本題につなげるつもりでしたが、うだうだと前置きを書いているうちに迷子になってしまいました。森林は誰のもの?次回は軌道に乗るよう頑張ります。
☆まとめ 「塾頭の一言」 本郷浩二
本当に残念に思いますが、その通りの状況にあります。元々生えていた木(前生樹)を伐った収入があって植えたものならまだしも、自給の薪を採った跡や原野、採草地に植えたものも多いので、資本投下の回収という面では、全く役に立たなかった50年であったかもしれません。
大多数の森林所有者は農用林(採草地を含む)・薪炭林を自給のために持っていましたが、昔は長子相続で代々家産(家の財産)として維持されて来た所有林が新しい憲法の下での均等相続で分割され、入会地も個人個人に分割され、もともと小面積なものがもっと細分化されたというのが、今の姿でしょう。私有林である程度の面積を持った方がいるのは、分限者がお金に困った者の林地を買ったり、商人がいわゆるツケや借財のかたとして手に入れた場合が多いと聞きます。
小規模所有者の場合、元が自家用の農用林や薪炭林ですから伐って売った収入も多くなく、小さい面積なので一遍に植えてしまい、あとは育てるのにお金がかかるだけの時期を長く過ごしてきました。相続で分割され、たいして手入れもされずにようやく収穫できる太さになったにしても、気付いてみれば、(自分の労働ではやれないので、)伐採経費が掛かり伐採するだけでも採算が合わなくなってしまったような森林、造林木を持て余してしまっているのです。伐採収入では造林できないから伐らないという立派な方もいらっしゃいますが、伐っても採算が合わないので放置しているという場合が多いと思っています。
伐らずに森林をお金にする方法をずっと考えてきましたが、手入れの行き届いた森林や自然度の高い森林ならまだしも、手入れ不足の一斉人工林ではそれもなかなか術がありません。最近は、木が吸収した二酸化炭素をようやく買ってもらえるようになりましたから、少しは状況も改善する余地ができました。
森林の金銭評価が十分にできないなどの課題も解消できないままですが、なんとか誰かが、何かが持て余されている森林をまとめて経営するという解決ができないものかと考えています。手入れ不足でたいしたことはないと思われた木の価値も、これを拾う神があるかもと思っています。