□ 椎野潤ブログ(塩地研究会第49回) 佐伯広域森林組合と歩んだ道(2)
佐伯広域森林組合 柳井康彦
4.宇目工場稼働
平成21年。この年にいよいよ宇目新工場の稼働となります。私は工場長としてスタートに関与させてもらいました。新工場はまさかのアメリカ製がメイン機械。工場の施設整備に至るに関してはかなりの紛糾もありましたが、結果的にこの判断が今の佐伯広域森林組合を作った決定的な要因となりました。当時、今山専務を中心に新工場を立ち上げるプランを構築していた時の話ですが、全体プランのコンサルをK氏に依頼しておりました。K氏とはどの規模で製材所をやりたいのか?という質疑があり、既存の工場は原木消費約3万だったので倍の6万程度の製材を行いたいと返答しました。これは私たちの目線で「生産的にやれる」というか自己基準的な数字であったと思います。K氏から、この地域では「最低10万からや」との返答がかえってきました。当時、国産材製材で10万はかなりの規模で衝撃的な数字でした。この辺は今の専務が主導、たくさんの方の強力な後押しを頂きそのスタートとなったのです。
私の任務は1年目原木消費量8万を達成する事が最初の目標。1年間は日々生産量を意識しての業務でなんとか計画どおりの生産はできたと記憶しています。余談ですが、国産芯込み間柱材の生産販売はこの時がスタートでした。その後さらに施設整備(ソーター、高速モルダーなど)を進め安定的に10万の生産が可能となっていきました。ただ、一方で原木の仕入れの4割が外部購入でした。当初の目的は管内の丸太を処理する事が大儀でしたから、当然運賃部分含めコストアップでもありました。まだまだ工場も山側もしばらくは混迷した期間が続きます。※販売面では現専務(今山)が塩地氏へ接近してしまった時期と思われます。
山側では高性能林業機械が普及し、請負班であった個人事業主の親方から規模拡大し株式会社化していきました。伐採から搬出のペースがかなり早くなり、約15班ある作業班の現場確保も職員が奔走しました。受け入れる市場はいままでの既存のお客様がいてその供給も大事であり、自社工場は後回しになるパターン。工場はニーズに合わせた生産を行い、各部門バラバラでの利益追求を行っていた事を思い出します。
5.森林整備事業からコンテナ苗の生産へ
平成25年、私は再度、森林整備関係に異動となりました。この時は森林の計画制度の変更時期でした。今の森林経営計画です。この計画制度の樹立を2年ほどかけて実施した記憶があります。これも私には良い経験でした。加工業務から再度森林整備へとなると「今からまた植林からか」とかなりテンションもさがったのを思い出します。そういいながら、またまた面白い事態に展開するのです。いままでわりと平穏に事業進捗していた造林事業でしたが、私の異動した年は雨不足で、枯れた苗木の補植が多く、植林した苗がかなりの量になりました。さらに苗木の仕入れ先である宮崎県では、火山の噴火で苗木生産者の苗畑も噴煙による影響を受けました。生産中の苗木が枯損する事態になり、九州全体で苗木不足が発生したんです。私の上司と苗木の確保に奔走し、今まで取引きの無い業者様にも声掛けしました。当然、すぐに確保できるわけはないのですが、苗木不足はしばらく続くと考え、翌年にでも構わないのでとお取引きをお願いしにまわりました。その際、宮崎県のある苗木屋さんに出会い、そこで目にとまったのがハウス栽培によるコンテナ苗(Mスター)生産でした。まだ先駆け的な生産方法で、この時はまだ生産方法そのものが確立前段階の感じでしたが、この方法なら私の地域でも生産できるのではと思い、それから頻繁にその苗木屋さんに通いコンテナ苗生産についてご教授頂きました。本当に丁寧に教えて頂いたことに感謝しております。
まだ確立できていないと感じてからその1年後に再度お伺いした際に、苗木生産者H氏のおくさんが「やっと今年からうまくいきました」と一言。生産を初めて5年目です。その年に組合内部でも苗木生産に取り組む方向となり平成25年から生産開始となりました。
1年目、工場のはしっこの敷地に、わずか2棟のビニールハウスをたてました。初年度3,000本を挿しつけてのスタートでした。費用もかけられませんのでまわりの職員さんを引っ張っては無理やり作業をすすめました。実験的な挿しつけも11月末に完了し、その冬に10年に1度の大雪がふりました。翌日、アーチ状のハウスは雪がつもりM時型に倒壊しました。見事にいきなり全滅です。2年目、3年目は水のやりすぎから根腐れ、4年目は水不足からの枯損。得苗率(挿しつけにたいする出荷率)30%程度。悲惨な状況でした。この苗木生産は森林組合他個人の方8名が1年遅れて生産を開始しました。内、1名が初年度より得苗率80%以上の成績で他の方の刺激にもなり、皆があきらめず続ける事ができたのです。当森林組合の苗木生産もやっとこの頃から順調な成績に移行できた時期でした。この時期に椎野ブログ事務局の文月様がちょうど視察にこられた頃と思います。苗木生産も10年が経ち、生産者も森林組合他30名にもなり、地元生産40万本に近い実績となりました。本当に真剣にご指導頂いた苗木業者様。一緒に取組んで頂いた地元生産者様。この事業を当初より支持して頂いた戸組合長のおかげと感謝いたします。現行の生産状況は福祉施設の方々にもご協力いただき、さらに高品質なコンテナ苗の増産を目指した取り組みとなっています。
☆まとめ 「塾頭の一言」 酒井秀夫
3月18日に発信された森林組合と歩んだ道の続編です。思い出話しの中にも、貴重なセオリーがここかしこに織り込まれています。
製材を立ち上げた当初、原木の仕入れの4割が外部購入とのことで、見えないコストがかかっていました。高性能林業機械は稼働率が重要ですが、請負班の事業量の現場確保に奔走されました。自社優先というわけにもいかず、自社工場を後回しにし、工場はニーズに合わせた生産を行っていました。当たり前のことを当たり前に、地域に則して地域と離れずに組合としてのサプライチェーンの入口と出口の責任を果たしてこられました。このように言うのは簡単ですが、実行するのは大変であったと思います。
宮崎県の苗木屋さんで、ハウス栽培によるコンテナ苗(Mスター)生産が目にとまったのはさすがです。見逃さずにチャンスをものにしました。その後、失敗の山の中で、ひとりの方が得苗率80%以上の成績を出して他の方の刺激になったのも幸運だったと思います。天に試されていたのでしょうか。成果が出ないと出ない理由を探してあきらめてしまう事業体も多いかもしれませんが、何度も挑戦して体当たりしておられます。
これからもチャレンジは続きます。全国には多くの森林組合がありますが、佐伯広域森林組合が特別な森林組合ではなくなり、どこもが人とともに歩んでいく森林組合になっていただきたいです。